2009年06月16日

グルコースより、グルコキナーゼ (EC 2.7.1.2)

グルコースより、グルコキナーゼ (EC 2.7.1.2)・ヘキソキナーゼ (EC 2.7.1.1)、ホスホグルコムターゼ (EC 5.4.2.2)、UTP-グルコース-1-リン酸ウリジリルトランスフェラーゼ (EC 2.7.7.9)、UDP形成セルロースシンターゼ (EC 2.4.1.12) の作用により合成される。セルロースシンターゼは細胞膜上に存在する。UDP-グルコース生成までの反応経路はグリコーゲンの生合成経路と同じである。
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
賃貸借
水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱

EC 2.7.1.2: ATP + D-hexose → ADP + D-hexose-6-phosphate
EC 2.7.1.1: ATP + D-glucose → ADP + D-glucose-6-phosphate
EC 5.4.2.2: α-D-glucose-6-phosphate → α-D-glucose-1-phosphate
EC 2.7.7.9: UTP + α-D-glucose-1-phosphate → diphosphate + UDP-glucose
EC 2.4.1.12: UDP-glucose + (1,4-b-D-glucosyl)n → UDP + (1,4-β-D-glucosyl)n+1
この他に、中間体としてGTP-グルコースを経由する経路も存在する。

セルロースを合成するのは植物とホヤのほかいくつかの微生物が知られている。最もよく知られたセルロース合成細菌は酢酸菌(アセトバクター属など)で、ナタ・デ・ココはこの細菌によって作られたセルロースである。

利用 [編集]

再生繊維 [編集]
綿やパルプから採取されたセルロースは短い繊維状になっている。これに化学処理を施して溶解させると、長い繊維状のセルロースとして再生することができる。

ビスコースレーヨン
銅アンモニアレーヨン
アセテート

綿火薬 [編集]
セルロースを硝酸で処理するとニトロセルロースとなる。これはセルロースの硝酸エステルで、加熱や衝撃を与えることで爆発する。煙を出さない無煙火薬の原料の一つとして用いられている。もともとは綿をセルロース源としたので、綿火薬と呼ばれた。

セルロイド [編集]
ニトロセルロース映画フィルムのベースとして使用された。古くなると自然発火する可能性がある。アニメーションのセル画にも使用された。
酢酸セルロース燃えやすいニトロセルロースの代替として使用された。透明度はニトロセルロースに劣る。

おもな誘導体 [編集]
ニトロセルロース
アセチルセルロース
セルロースエーテルの一種として、カルボキシメチルセルロース (CMC) が増粘用工業原料として種々の用途に使われている。

2009年05月30日

壬申の乱の原因として

天智天皇は即位以前の天智天皇2年(663年)に百済の復興を企図して朝鮮半島へ出兵して新羅・唐連合軍と戦うことになったが、白村江の戦いでの大敗により百済復興戦争は大失敗に終わった。このため天智天皇は国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築くとともに百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移した。また、国内の政治改革も急進的に行われた。しかしこれらの動きは豪族や民衆に新たな負担を与えることとなり、少なくない不満を生んだと考えられている。近江宮遷都の際には火災が多発しており、遷都に対する豪族・民衆の不満の現れだとされている。さらに、天智の改革においては地方豪族(特に東国)を軽視したために地方豪族の間で不平が高まったと見られている。これらの不満の高まりが壬申の乱の背景となっていった。
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また、飛鳥時代に多発した皇位継承紛争の1つと見る説もある。当時、律令制の導入を目指していた天智天皇は旧来の同母兄弟間での皇位継承の慣例に代わって唐にならった嫡子相続制(すなわち大友皇子(弘文天皇)への継承)の導入を目指しており、大海人皇子の不満を高めていった。さらに大海人皇子は有能な政治家であったらしく、これらを背景として大海人皇子の皇位継承を支持する勢力が形成され乱の発生へつながっていったとしている。これらを踏まえて、前述した天智改革への不満の醸成が壬申の乱の下地を作り天智以後の皇位継承の争いが乱発生の契機となったとする説が有力となっている。

また、天智天皇と大海人皇子の不和関係に原因を求める説もある。江戸時代の伴信友は『万葉集』に収録されている額田王(女性)の和歌の内容から、額田王をめぐる争いが天智・天武間の不和の遠因ではないかと推測している。

2009年04月27日

可視光磁場望遠鏡 (SOT)

SOTは、可視光波長で太陽を観測し、その偏光を測定することで太陽表面の局所的な磁場ベクトルを詳しく調べるために開発された。複数の波長域に対応したフィルターとスペクトロ・ポラリメーターを搭載し、光球から彩層を観測ターゲットとする。口径は50 cm、空間分解能は波長によるが0.2-0.3秒角、視野は直径400秒角、CCD画素数は2000 × 2000である。望遠鏡部は日本の国立天文台が開発、検出器はNASAの担当でロッキード・マーティン太陽天体物理学研究所が開発した。

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極紫外線撮像分光装置 (EIS)
EISは高い空間分解能で波長17-21 nmと25-29 nmでのスペクトルを観測することにより、光球や彩層と、その外側にあるコロナとの間で起こるエネルギーの移動を調べるために開発された。この二つの領域間には遷移層と呼ばれる領域があり、ここが主な観測ターゲットとなる。また、太陽大気中での磁力線の振る舞いも観測対象となる。当機では太陽表面の観測をSOTが、コロナの観測をXRTが主に担当するが、EISは観測領域的にも意味的にも両者の橋渡しをする存在といえる。「SOHO」にも同様の機器が搭載されているが、当機では解像度、波長分解能ともに3倍に性能が向上している。SOLAR-B提案時に日本の国立天文台がこの装置の提案をし、イギリスのマラード宇宙科学研究所 (MSSL) がまとめ役となってイギリス、アメリカ、日本、ノルウェーの4カ国9機関の協力のもとに開発された。

X線望遠鏡 (XRT)
XRTは高温のコロナを観測するための基本的な装置である。観測波長域は0.2-20 nmであり、温度でいうと100万℃以下から1000万℃以上までをカバーする。特に1000万℃以上の高温域は「SOHO」や「TRACE」では観測できなかった部分である。空間分解能は1秒角であり「ようこう」に搭載された軟X線望遠鏡の3倍である。視野は34分角であり太陽全体を捉えることができる。望遠鏡部分はアメリカのスミソニアン天文台が、検出器は国立天文台とJAXA/ISASが開発した。

なお、「ひので」は上記観測装置を保持するために0.1秒角精度の姿勢制御能力を備えており、衛星の規模から考えると、非常に高精度な姿勢制御システムとなっている。開発は三菱電機が担当した。

2009年04月11日

コーディレフスキー雲

コーディレフスキー雲(あるいはコーディレフスキーの雲)とは、月軌道上のL4・L5付近に存在するという雲状の天体。地球-月間で三体問題の正三角形解にあたる位置に塵が多く集まったというもので、これが太陽光を反射し光って見えると言われる。月と同じように地球の周りを回っている事になるので、「地球の雲状衛星」とも言われる。

ポーランドのカジミェシュ・コルディレフスキが1961年に存在を確認したと報告した。彼が1956年10月に最初にそれを目視観測した時は、角度にして約2度の、対日照の半分ほどの明るさの光を見たという。ただし1961年にそれを写真撮影した時には、大きさと明るさが変化していた。1967年にはJ・ウェスリー・シンプソンがカイパー空中天文台で、1975年には太陽観測衛星 OSO-6 が観測している。コルディレフスキ以外の観測者も確認したとのことで実在することは確実かと思われたが、その後は存在を確認したという報告が少なく、今や幻の天体となっている。1991年には日本の探査機ひてんがL4・L5点の周辺を通過したが、有意なダスト増加は観測されなかった。L4・L5点は太陽の摂動によって不安定なため、一時的な現象だったのではないかと考えている者もいる。

見かけの大きさが約2度ならば、直径は少なくとも14,000kmと、地球並みのサイズであるだろう。それだけで言えば月と同様に肉眼でも大きく見えているはずの身近な天体である。しかし残念ながら大変暗い天体であり、天の川はおろか黄道光より淡く、更には対日照よりも1等級ないし2等級暗いと言われる。不運なことに、その黄道光と対日照が観測の妨げとなり、存在を確認するのは困難である。実際、光害がひどい現在の日本で観測を成功させるのは絶望的と見られるが、それでも1970年代初めには、多くの日本のアマチュア天文家によって、日周運動に対して追尾する赤道儀式の架台の上に標準レンズ(50ミリ)を装備したメカニカルカメラを設置した簡単な機材を使って、コーディレフスキー雲の観測の追試を試みた記録がある。

観測条件 [編集]
コーディレフスキー雲は、言われている通りのものであれば、白道面内にあって月に対し角度で東西60度離れた位置に1個ずつ、計2個存在するはずである。白道の黄道面に対する角度は約5度と比較的小さい為、周囲の黄道光に観測を妨害されやすい。そもそもこの雲は地球の重力に捉えられた黄道光物質であると考えられる為、その発する光は黄道光と同様のものであるはずで、光の性質の違いにより黄道光と区別することは余り期待できない。なお望の頃は、コーディレフスキー雲においても満月と同様、その構成する塵の鏡面反射光(正反射光、後方散乱光とも言われる)が観測され、普段よりは明るく輝く事が期待できる。しかしながらこの場合、より明るい対日照が付近に存在し、観測を妨げる。

このように、コーディレフスキー雲と周囲のバックグラウンド光とのコントラストはたいへん小さく、対日照も黄道光もその他の妨害もうまくすり抜けられる最良の条件でも、望の頃に約1等級程度でしかないのではないかと言われている。これでは肉眼での確認は、条件の良い日を計算して選択してもたいへん困難である。そこで前述の方法、つまり標準カメラで星空を拡大せずにガイド撮影するという、比較的簡単な装置と方法が確認の手段として当初から推奨されていた。

存在への疑問 [編集]
コーディレフスキーの雲は、多くの試みにもかかわらず観測に成功した報告は少ない。特に、緯度が高くて観測条件の悪い東欧で見え、緯度が低い赤道付近の国で見えないと言うのは変であり、実在はかなり疑わしいと言える。黄道光の中に、別の要因による模様がしばしば出る場合がある(後述)ので、たまたまコーディレフスキーが観測した時に月に対して60度の角度に近い位置でそのような模様が出た、つまりコーディレフスキーは「雲」を確かに見たがそれは地球の雲状衛星では無かったという可能性もあり得る。

例えば、可視光で彗星から離れた淡い部分まで確認された例は少数であるが、黄道光に生じる模様として、流星群の流星物質による帯状の分布模様がある(黄道光の赤外線観測で見られるもの)。細長い帯と丸い天体とでは形状が相当に異なるが、太陽と正反対の部分だけが対日照と同じく鏡面反射光として明るく輝き、選択的に観測され、見間違えられたと考えれば、一応説明がつく。ただし、流星物質の空間分布の研究は当時進んでいなかった為、どの流星群なのかは判らない。

近年の精しい研究の結果、地球から見て満月に相当する位置に、短周期彗星起源の流星群の帯がコーディレフスキーの雲のように見える可能性がある、と初めて予想できた幸運な例として、ジャコビニ流星群との2005年の接近のケースがある。すなわち、2005年10月8日の晩に、開発が進んでおらず星の良く見える極東アジアで、対日照付近に、ほかの日には見えないコーディレフスキー雲のような天体が、見えるかもしれないと予想される。もしその日、そのような天体が実際に見えたなら、流星群を形成している流星物質の帯が、宇宙空間において、コーディレフスキー雲がそこに存在しているかのように見える場合があるという事が確認された、たぶん最初のケースになり、コーディレフスキー雲が実在しない確率が高まるだろう。

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2009年03月27日

デンマークのヴァイキング

デンマークのヴァイキングは、デーン人(Daner, Dane)と呼ばれ、ヴァイキングの代名詞となった。セーヌ川(Seine)河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地へと出撃した。851年にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、866年にはノーサンブリアからイースト・アングリア一帯にデーンロウが成立している。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史はアングロサクソン諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。911年にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロの下に恒久的に定住し、ノルマンディー公国を形成することになる。ノルマンディーに定住したヴァイキングはノルマン人といわれる。

ノルウェーのヴァイキング [編集]
ノルウェーのヴァイキングは、ノース人(Norsemen, Norse)と呼ばれる。8世紀にはオークニー諸島やシェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島やヘブリディーズ諸島、東アイルランドに進出した。 988年にはダブリンが建設された。874年にはアイルランドのケルト人と共にアイスランドに定住を始めた。ケルト人を奴隷として連れて行ったのか、それとも対等な同志だったのかは詳らかではないが、アイスランドへはノース人の数倍の人数のケルト人を連れて行っている。さらに985年に赤毛のエイリークがグリーンランドを発見し、その息子レイフ・エリクソンは北アメリカにまで航海し、そこをヴィンランドと命名した。992年(事実は1000年)のことである。しかしグリーンランド以西の植民地活動は最終的には失敗に終わった。 だが、交易活動も行っており人や文化の交流の橋渡しの役割も果たした。

スウェーデンのヴァイキング [編集]
スウェーデンのヴァイキングは、しばしばスヴェア人と呼ばれる。北方ドイツやフィンランド、東スラブ領土へも進出した。またリューリクがノヴゴロド公国で新しい公朝を立てたといわれているが、この論争はゲルマニスト・スラヴィスト間の対立としてしられ、とくに『ルーシ年代記』(邦訳は名古屋大学出版会)にみられる「ルーシ」の同定、さらに「ルーシ」が国家形成で果たした役割をどう評価するかが論点となっている。ただし現代では、反ノルマン説は根拠に乏しいとして否定されている(反ノルマン説を提起するのは、多数の東欧の歴史家である。この問題は、史実的な問題というよりも政治的な問題である)。またノルマン人がルーシ国家の創設に深く関わっていたのは事実である。さらにリガ湾やフィンランド湾に流れ込む河川を遡り、9世紀にはバルト海と黒海を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは東ローマ帝国の都コンスタンティノープルにまで姿を現している(839年頃)。伝説的な要素も含む『原初年代記』によれば、882年にはドニエプル川を南下し、リューリクの息子イーゴリが、オレグを後見人にキエフ大公国を建国。彼らはヴァリャーグと呼ばれる。またサーガ(スノッリ・ストゥルルソン「ヘイムスクリングラ」)やリンベルトによる聖人伝「聖アンスガールの生涯」によると、9世紀のスウェーデンのエリク王(族王)の時代には、エストニアとクールラント(今のラトヴィアの一部)を支配していたが、それを失ったらしい。なお、スウェーデン・ヴァイキングには、フィン人も参加していたとフィンランドでは主張されているが、史実的な裏付けはない。

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2009年03月11日

フィレンツェ歴史地区

フィレンツェ歴史地区(?れきしちく Centro Storico di Firenze it / Historic Centre of Florence en )はイタリアの都市フィレンツェの中心部。ユネスコの世界遺産(文化遺産) に登録されている。歴史的な町並みが広範囲かつ集中的に保存されており、ルネッサンスの芸術、文化を眼前にみることができる

フィレンツェは屋根のない博物館とも表されるほど、稀有な建築物や彫刻などの芸術作品が残る。もともとフィレンツェはエトルリア人によって創設されローマ殖民都市がおかれた。一時神聖ローマ帝国皇帝支配の時代もあったが、徐々に中小貴族や商人からなる支配体制から発展し、12世紀には事実上の自治都市となった。以後、織物業をはじめ近郊の農産物の出荷地としてしられ、金融業も発展していった。

フィレンツェの歴史はメディチ家抜きには語れない。14世紀には人口12万人を要する都市となるがその頃、ジョヴァンニ・ディ・ビッチが成功させた銀行業を継いだコジモ・デ・メディチ(コジモ・イル・ヴェッキオ)は、フィレンツェの政治を支配し、学術・芸術を振興した。多くの芸術家を庇護し、プラトン研究のアカデミーや公共図書館を設立するなどし、死後「祖国の父」と称号を贈られた。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

コジモの孫のロレンツォ・デ・メディチは早くから英才教育を受け、優れた政治能力を発揮した。自身も詩人であったロレンツォは芸術家らと親しく交わり、学問・芸術を厚く保護を行い、彼の代にルネッサンスは最高潮を迎える。現在でもメディチ家の6つの球をあしらった紋章をあちらこちらで見ることができる。そののちサヴォナローラの独裁などさまざまな政争を経て、16世紀にフィレンツェはトスカーナ大公国となる。

13世紀から16世紀にかけての繁栄の中で残された歴史的建造物は、いまでも大切に保存されフィレンツェ歴史地区をかたちづくっている。ロッジア・デイ・ランツィやポンテ・ヴェッキオは中世商業都市を象徴し、パラッツォ・ヴェッキオ、シニョリーア広場は自治の歴史を思い起こさせる。またウフィツィ美術館はルネッサンス芸術の宝庫、ピッティ宮は大公国時代の華麗な遺産である。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、フィレンツェ全盛期の歴史をみまもってきた。地区全体が歴史遺産として登録された理由はたゆまない都市建設の偉業によってである。

「花の聖母マリア」の意味を持つ大聖堂。イタリアにおけるゴシック建築および初期のルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。

1296年に、アルノルフォ・ディ・カンピオの設計により着工。140年以上の歳月をかけて建設されたため、ゴシック・初期ルネサンス・ネオ・ゴシックの各様式が混在している。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大である。

大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。

14世紀の始めにフィレンツェの政庁舎として建築され、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまでここを住居としていた。現在は市庁舎として使用されている。3層の石造建物で塔の高さは94mある。

「500人大広間」の壁画をミケランジェロとダ・ビンチが競作したエピソードで有名(現在の壁画はジョルジョ・ヴァザーリ作)。

宮殿前のシニョリーア広場は、中世のフィレンツェの政治の中心であった。ジロラモ・サヴォナローラが火あぶりの刑に処せられた場所でもある。ミケランジェロのダビデ像が置かれていたが、現在置かれているものはレプリカ。

近代式の美術館としてヨーロッパ最古といわれる。建物はもともと、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で1560年に着工し、1580年に完成したフィレンツェ共和国政府の政庁舎だった。したがって、ウフィツィ(Office)の名がつけられた。

もともと、メディチ家の収集した美術品を保管するため最上階が改装された。メディチ家が、1737年に断絶された後も美術品は残され一般に公開されるようになった。

ウフィツィ美術館の中心には、トリブーナと呼ばれる真珠貝が散りばめられたドーム空間が広がっている。もっとも広い部屋は、ボッティチェッリの間とも呼ばれ、サンドロ・ボッティチェッリの作の『ヴィーナスの誕生』が飾られている。またメディチ家の結婚祝としてボッティチェッリが描いた『春』も所蔵されている。

アルノ川の南岸に建つピッティ宮殿は、ルカ・ピッティがブルネレスキに依頼して建築し、16世紀半ばにメディチ家が購入し、歴代トスカーナ大公の居館となった。その後、数回の改築を経て18世紀ごろに現在の形となる。現在は、2つの美術館と5つの博物館になり、ヴェッキオ宮殿からウフィツィ美術館とは、ヴァザーリの回廊で結ばれている。


ボーボリ庭園
ピッティ宮殿の背後に広がる。コジモ1世が、肺結核の妻の療養のために16世紀半ば造営したといわれている。広さは45,000m?。

ドミニコ会の修道僧が設計し、14世紀後半に完成したゴシック様式の聖堂である。建物正面は、15世紀半ばにレオン・バッティスタ・アルベルティによる改装を受け、現在の姿になる。ゴシック様式および初期ルネサンス様式で描かれたフレスコ画は特に有名。

内部には現在まで続く世界最古の薬局「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」がある。

また、レオナルド・ダ・ビンチが3年間暮らし、モナリザの製作を行った場所としても有名である。

14世紀後半に完成したゴシック様式の聖堂。建築家アルノルフォ・ディ・カンビオの設計である。世界最大のフランシスコ会の教会。

堂内には、ミケランジェロやガリレオ、作曲家のロッシーニなどの著名なイタリア人の墓が多数あることでも知られている。


2009年02月23日

ヒンディー語/ヒンディー(Hindi ?????? )

ヒンディー語/ヒンディー(Hindi ?????? )は、インドの主に中部や北部で話される言語で、インドが制定している公用語の内、一番目に来る(二番目は英語)。インドで最も多くの人に話されており、話者の数は約4億人に上る。日常会話の話者数では中国語の約13億人、アラビア語の約4億2000万人に続き、世界で三番目に多くの人に話されている言語。ただしインド国内の公用人口比率で見ると、話者は約30%しかいない。
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「ヒンディー(Hindi)」のみで言語を表わすため、本来は「語」を付する必要はない。そのため「ヒンディー語」という表記は不正確といえる。その一方で、宗教名を用いた「ヒンドゥー語」「ヒンズー語」という表記は明らかに誤った表現であるが、日本語でインドの言語を表記する場合は一般に、サンスクリット以外は○○語、またはインド・アーリヤ語派では○○ィー語と書かれる。

ちなみに、「ヒンドゥー」も「ヒンディー」も「ヒンド(Hind)」の形容詞形である。本来「ヒンド」とはペルシア(現在のイラン)の側からインダス河対岸一帯を指した地域名だったのだが、現在ではその実体は失われ、「ヒンドゥスタン(Hindustan)」(=「ヒンドの土地」の意)などの派生語が残るのみである。

系統と歴史
インド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派に分類される。

隣国ネパールで話されるネパール語、およびインド国内とパキスタンで話されているウルドゥー語などとも近縁関係にあり、特に後者とは基本的な語彙や文法がほぼ共通しており、言語学的には同一の言語の変種である。そのため大抵の場合それぞれ互いに通じる。

歴史的にはサンスクリット、プラークリットといった古典言語にアラビア語、ペルシア語系の語彙が極めて大量に加わって成立したヒンドゥスターニー語がヒンディー語の前身であり、19世紀頃にウルドゥー語と不完全ながらも分化している(ウルドゥー語がさらに多くのアラビア語、ペルシア語系の高級語彙を取り入れたのに対し、ヒンディー語は一定程度のアラビア語、ペルシア語系の高級語彙をサンスクリット由来の高級語彙で置換させて成立した。ただし、基本語彙まで全て排除することは不可能であるので、現在でもヒンディー語にはかなり多くのアラビア語、ペルシア語の語彙が残存する)。ヒンドゥスターニー語を構成する大きな要素であるアラビア語、ペルシア語、サンスクリットは全て古典語として洗練された言葉であり、高級語彙を提供しうる言語であったこともこのような分離が成功した要因である。但し政治的、宗教的な場を除く日常生活では、インドとパキスタンの庶民ともに実際は両言語の混交したものを使用しており、現代のそれらを総称してヒンドゥスターニー語と呼ぶこともある。

現代ヒンディー語はインド英語とも影響し合って変化を続けている。

多言語国家のインドでは、インドの全公用語をヒンディー語とする運動を進めているが、全く別種の語族である、南部のドラヴィダ語族圏から猛反発が起きており、反対運動に伴い死者を多数出す騒動も発生したため、統一されるメドは全く立っていない状態である。

変種
東ヒンディー語:ヒンディー語の主要方言の一つ。正統なヒンディー語とされており、ウッタル・プラデーシュ州を中心に話者人口も多い。
西ヒンディー語:ヒンディー語の主要方言の一つ。東ヒンディー語よりも話者人口は少ないが、首都ニューデリーを含む地域で話されているため、その影響力は少なくない。

文字
表記には主にデーヴァナーガリー文字が用いられる。インド国内の公共表示では英語式アルファベットに準じたラテン文字表記も併用されることが多く、これはアラビア文字で表記されるウルドゥー語の話者と文書で意思疎通する際などにも多く用いられる。また逆にラテン文字において、デーヴァナーガリー文字風に肉付けしたラテン文字フォントが使われる事も希にある。

2009年02月07日

細川成之・細川政元・細川澄之

細川 成之(ほそかわ しげゆき、永享6年(1434年) - 永正8年9月12日(1511年10月3日))は、室町時代の阿波国・三河国・讃岐国の守護大名。細川教祐の子。細川持常の養子。官位は兵部少輔、讃岐守。細川政之、細川義春(京兆家を継いだ細川澄元の実父)らの父。
ルント シャイ インタン トラム バプ 冬の枝 ハニー はしかみ スタッ ロルプロ トザウルス マリオ ロール ライカ カースト 花月 フェンシ モリブデン マジック おんかま シッキ サンドバ ニング ワラント サウスポー ミール きんしゃ ブランチ プロジ タッグ れんおん シルク チャカレ ヒュンダ くわのじつ ストラ 空を見 シャー リチャ 黄砂 オープン オリンズ ジブチ わどまり あずきいろ パリティ ビーフン コクト ひしがた バカラ

宝徳元年(1449年)に家督を継承し、阿波・三河守護となる。応仁の乱では東軍に属した。文明5年(1473年)、讃岐の守護となる。晩年は出家した。永正8年(1511年)、78歳で死去。

宝徳元年(1449年)から文明10年(1478)まで、三河守護。以後、三河守護は不明となる。1465年に丸山中務入道や大庭二郎左衛門らの額田郡牢人一揆が起き、成之は京の征夷大将軍足利義政の命で伊勢貞親被官の松平信光と戸田宗光(全久)に鎮圧させている。

東山文化を代表する文化人の一人として知られる。

細川政元
細川 政元(ほそかわ まさもと)は、室町時代中後期の守護大名。室町幕府の三管領の一つである細川京兆家の当主。父は細川勝元で、母は不明。勝元の正室・山名熙貴の娘(養父は山名宗全)を母とする説もあるが、根拠となる史料は無い。実子はなく、養子に細川澄元、細川澄之、細川高国がいる。

管領として幕政を牛耳り京兆家の全盛期を築くが、3人の養子を迎えたことで家督争いを引き起こし、自らもその争いに巻き込まれて家臣に暗殺された(永正の錯乱)。

文正元年(1466年)、細川勝元の嫡男として生まれる。文明5年(1473年)、応仁の乱の最中に病死した勝元の後継として、わずか8歳で家督を相続。丹波・摂津・土佐守護に就任する。幼少のため、細川政国の補佐を受けた。

文明6年(1474年)、西軍方の山名政豊と和睦する。文明18年(1478年)に元服し、足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。管領に任じられたものの、短期間で辞職している。

クーデターによる政権奪取
延徳元年(1489年)、将軍・義尚は六角討伐の最中、近江で陣没する。政元は次期将軍として堀越公方・足利政知の子・香厳院清晃(足利義澄)を推挙するが、日野富子の後押しの結果、足利義視の子・足利義材(のち義稙)が10代将軍に就任する。結果に不満であった政元は、やがて幕府に距離を置き始める。義材の将軍就任は、義視と畠山政長の権勢が高まることとなり、延徳3年(1491年)1月に義視が死去した後は、政長が権力を独占するようになる。

明応2年(1493年)、将軍・義材は政長と共に畠山義豊討伐のため河内へ出兵する。4月、京都に滞在していた政元はクーデターを決行、香厳院清晃を第11代将軍として擁立する(明応の政変)。この政変により、当初は政長方であった赤松政則も政元に寝返ったため、孤立無援となった政長は自害、捕らえられた義材は京都竜安寺に幽閉された。明応3年(1494年)、香厳院清晃を将軍職に就けて管領に任じられた結果、政元は将軍を事実上の傀儡にして幕政を牛耳るに至った。

諸勢力との戦い
政変後、越中へ亡命していた義稙(義材)は、明応8年(1499年)に北陸の兵を率いて近江にまで侵攻するが、政元はこれを破り、同じく義稙に呼応した畠山尚順をも撃破する。

一方、政元は生涯独身を通し、山伏信仰に凝って諸国を放浪するなどの奇行があり、幕政を混乱させることもあった。こうした気分屋的な傾向、そして実子が無かったことは京兆家の家督相続問題にも反映した。文亀2年(1502年)、九条家から家督相続を条件に澄之を養子として迎えるが、文亀3年(1503年)5月、分家である阿波細川家から澄元を養子として迎えて家督相続を約束したため、政元は澄之を廃嫡する。その結果、澄之・澄元両派の対立が先鋭化するに至る。

永正元年(1504年)9月、摂津守護代・薬師寺元一の謀反を鎮圧し、永正3年(1506年)に河内の畠山義英を討伐、大和へ侵攻する。永正4年(1507年)には紀伊、さらに丹後・丹波の一色義有をも侵攻するなど、自らの勢力の拡大を図った。こうして、政元は京兆家の全盛期を築き上げる。

ところが、政元はこのような戦乱を嫌悪したのか、修験者として奥州で廻国修行をしたいと言い出して、家臣の三好之長の諫言によって断念させられる。永正4年(1507年)6月23日、澄之派に懐柔された警護役の竹田孫七・香西元長・薬師寺長忠によって、湯殿で行水をしていたところを襲われて殺された(永正の錯乱)。享年42。

これ以降、京兆家は内紛を重ねて急速に没落していくことになる。

人物・逸話
生前の奇行や死後の内紛などのため、これまで後世の評価は芳しくはなかったが、近年では管領の地位を長期間にわたって保ち、なおかつ将軍の廃立すら行った政元の時代こそが細川京兆家の全盛期であったと見るのが通説となっている。
幕政を牛耳り、当時では勢力随一の大名であったことから半将軍と称された。
独身を貫いたのは修験道に凝ったため、あるいは女嫌いで深く衆道(男色)を好んだからなどの諸説がある。
修験道に凝って政務を放棄し、京都から離れて丹波などまで赴くことがあったため、家宰の安富元家や家臣の庄元資、三好之長らによって連れ戻されることもあったといわれる。安芸宍戸氏の出身の司箭院興仙(宍戸家俊)を修験道の師とした。
諸国放浪の際、各地の守護らと会見を持っており、自派勢力拡大のための政治目的もあったとされている。
政元は優れた人物と言い難い一面があるが、家臣に優れた人物が多数いたことが細川氏の全盛期を築き上げたといえる。

細川澄之
細川 澄之(ほそかわ すみゆき)は、室町時代後期(戦国時代)の武将。細川政元の養子である。
延徳元年(1489年)、関白・九条政基の末子として生まれる。母は武者小路隆光の娘で、母方の従兄弟に室町幕府11代将軍・足利義澄がいる。

管領の細川政元には実子が無かったため、文亀2年(1502年)9月、澄之を家督継承者として養子になり、政元から丹波守護職を与えられた。ところが文亀3年(1503年)5月、政元は澄之を廃嫡し、阿波守護家の細川義春の子・細川澄元を新たに養子に迎えて後継者に指名した。永正3年(1506年)には養父・政元の命令に従って丹後の一色義有討伐に赴いたが、敗退している。

永正4年(1507年)6月、政元の被官香西元長・薬師寺長忠らが政元を暗殺する永正の錯乱が起こる。元長・長忠らは澄元の暗殺も計画したが、澄元は家宰の三好之長の機転によって近江に逃亡。澄之は元長らに迎えられて丹波から上洛し、政元の葬儀を催して将軍義澄から細川管領家(京兆家)の後継者と認められた。

なお、澄之自身は政元の暗殺計画にはほとんど関与しておらず、澄之を新たな京兆家当主として擁立することで三好之長ら阿波の勢力を排除したい元長・長忠ら京兆家被官が中心的な役割を果たしていたとされる。

しかし近江に逃れた澄元と三好之長は近江の国人を味方に引き入れ、8月1日には京都に攻め上った。澄元と同じく政元の養子であった細川高国も澄元に加担したため、澄之は敗れて戦死した。享年19。元長や長忠らも戦死し、澄之政権はわずか40日で崩壊した。

辞世の歌
梓弓(あずさゆみ)張りて心は強けれど、引き手すくなき身とぞ成りぬる。

2009年01月22日

ムタワッキル3世

ムタワッキル3世(? - 1543年)はアッバース朝最後のカリフ(在位:1508年 - 1517年)。当時アッバース家カリフの庇護者だったマムルーク朝は経済的、軍事的にオスマン帝国の脅威に晒されており、ムタワッキルの地位も不安定なものだった。

1517年にマムルーク朝が崩壊すると、ムタワッキルはオスマン皇帝に庇護を求める。セリム1世は仮にもアッバース家のカリフであり、建前上は全スンナ派ムスリムの精神的指導者であるムタワッキルを一応は丁重に扱い、帝都イスタンブルに住まわせた。しかし次第にセリムはアッバース朝のカリフを邪魔者と思い始め、最終的にはムタワッキル以降のアッバース家のカリフ位継承を認めず、事実上の監禁状態に置いた。最終的にムタワッキルは1543年に没し、アッバース朝は完全に滅亡した。

ワースィク1世(在位:1340年 - 1341年)はアッバース朝の第41代カリフであり、カイロ・アッバース朝の第4代カリフである。前任者同様マムルーク朝の庇護を受け、その権力を追認するだけの存在であった。

ハーキム1世はアッバース朝の第39代カリフ(在位:1262年 - 1302年)である。アッバース朝第30代カリフ、ラーシドの子孫で、先代ムスタンスィル2世に後継者が居なかったため、傍系の彼がカリフに即位した。政治的権力はなく、日本の天皇や欧州の教皇同様の名目的権威者に過ぎなかった。

ムスタンスィル2世はアッバース朝の第38代カリフ(在位:1261年 - 1262年)で、カイロ・アッパース朝の初代カリフである。バグダード・アッパース朝第37代カリフムスタアスィムの叔父にあたり、モンゴル軍のバグダード征服の後、カイロに身を寄せ、モンゴルと戦っていたマムルーク朝の庇護を受ける。バイバルスの庇護下でカリフに即位し、1262年に没した。後継者が居なかったため、ムスタンスィル2世の死後は、傍系であるアッバース朝第30代カリフ、ラーシドの子孫ハーキム1世がカリフ位を継承した。

ムスタアスィム(アラビア語:???????? ????? ??? ???? ??? ????? ? al-Musta‘?im bi-Allāh Abū A?mad ‘Abd Allāh、1212年 - 1258年2月10日)はバグダード・アッバース朝最後(第37代)のカリフ(在位1242年 - 1258年)。ムスタンスィルの息子。「ムスタアスィム・ビッラー」とはアラビア語で「アッラーにかけて固守する」ほどの意味。

1242年父が急死したために即位するが暗愚で惰弱な人物で、1258年、モンゴル帝国のフレグがバグダードに攻め入ってくると降伏した(バグダードの戦い)。しかし、敷物で巻かれモンゴル軍の軍馬に踏み殺され、処刑された。モンゴル軍はムスタアスィムの子供も殺害した。唯一生き残った息子はモンゴルに送られた。こうしてアッバース朝は最後の領土を失い、世俗王家としての命脈を絶たれた。

なお、彼の父方の叔父にあたる人物はバグダードからマムルーク朝のバイバルスのもとに落ち延びて、ほとんど名目上ではあったがムスタンスィル2世としてカリフに即位した(その後はアッバース朝第30代カリフ、ラーシドの子孫がこの位を1517年まで継承する)。

ムスタンスィル(アラビア語: ???????? ????? ??? ???? ????? al-Mustan?ir bi-Allāh Abū Ja?far Man?ūr、1192年 - 1242年12月5日)は、アッバース朝第36代のカリフ(在位1226年 - 1242年)である。ザーヒルの子。

1226年、父の死後に即位する。この頃になるとモンゴル帝国の進出がこの地にまで広がるようになり、ムスタンスィルは挙国一致の軍備増強をはかり、対モンゴル戦を聖戦として戦おうとしたが、その用意を整えている大事なときになって急死した。

敬虔なカリフとして知られ、1234年にバグダードの市内にムスタンスィリーヤ学院(マドラサ)を創建した。それまでのマドラサは単一の法学派のために施設であったが、はじめてスンナ派4大法学派すべての教科が講義された。おりしもモンゴルの中央アジア・イラン侵攻という難関の時期であり、父ナースィルが目指した全ムスリムに対するカリフの強力なリーダーシップの復興という理念を受継ぐ、という彼の志向を反映した物だろうと言われている。

ナースィル・リ・ディーニッラー(アラビア語:?????? ???? ???? ??? ??????? ?? ???????? ? al-Nā?ir li-Dīn Allāh Abū al-‘Abbās A?mad b. al-Musta?ī、1158年 - 1225年)はアッバース朝の第34代カリフ(在位1180年 - 1225年)。先代のムスタディーの息子。

歴代カリフでもっとも長い治世を誇り、数世紀に渡り弱体化したカリフの権力・政治的実権と全ムスリムからの宗教的権威の双方の回復に努めた。そのため内外の諸勢力の対立を利用して周辺諸国の同盟関係に干渉し、これを操ってアッバース朝の優位性を確立するため奔走している。

即位すると、まずエルサレム王国打倒のため諸国からの協力を欲していたアイユーブ朝のサラーフッディーンの要請に応じてジハード宣言を下す一方で、エジプトからシリア一帯を征服しつつあったサラーフッディーンを警戒してその動向を批判するなどして牽制している。
マリゴール ユーロシ 法則 プロキオ パティ フェンリル ロボコン プラン とうみ ドロン デザイナー ひかわ ウンギョー クロスバー デリシ 宿儺南瓜 フロアマ バナバ ぶどう ハツユ ァサード パイ セミダブル ミコロン スキャンダル ピザク トライアル ギンリ ビコル カデット ブレーン エイド ヒート フロアス エーエスピ シュリン くわい サイト冬瓜 紀州 レーシ うたしない ベジス ブック ノベル ジャル ワイフ ニュー フリ モラテオ はっとう

この時期、アタベク諸政権とその庇護化にあった王族たちによる内紛が絶えなかったセルジューク朝は弱体化が激しく、また1180年代半ばにはホラーサーンからオグズ諸勢力がイラン東部に侵攻してケルマーン・セルジューク朝を滅ぼしていた。ナースィルはこの混乱を好機と見てホラズム・シャー朝のテキシュに誘い掛けて、1194年にはセルジューク朝最後の君主となるトゥグリル3世を攻め滅ぼさせた。同時に、ゴール朝のギヤースッディーンにも軍事支援の要請を取り付けることにも成功し、これにテキシュの牽制も行った。

アラーウッディーン・ムハンマドとジャラールッディーンのイラン、イラク地域での攻勢に苦しい立場にさらされ、モンゴル帝国の侵攻にはほとんど対抗が出来なかったものの、ルーム・セルジューク朝や奴隷王朝、インドから帰還したジャラールッディーンにモンゴル軍への対抗を支援するなど多方面への働きかけを続けている。

アッバース朝の復興を半ば実現した一方で、ナースィルの外交政策によって周辺諸勢力を混乱させ、ホラズム・シャー朝の没落とモンゴル帝国の侵攻を容易にしたとして同時代の人々からの批判は功罪半ばしているが、後世からはこの時代にあって卓越した行動力と鋭敏さで国事と外交を采配した有能な君主であった、という評価を受けている。


2009年01月15日

自然災害との関わりが指摘

リティ ハーフタイ ラサSEO ナビみさわ プローブ いきな オストミー ゼロワン フェイ ユータ メイス ドッグレ オール のんき フィジー ソニア ジューサ トハギ コート ナーグプ ちょくん ロイヤ フラック カスタマー ポンチ 影ふみ ニップル ハンブル 時代屋 ドッキン オンフ タウン むほん ブロード ジルサン パレタイ セリュ すぺあ トレッド ディベー ディーズ フラワー レジャ フォーマ シランレン メゾン お手玉 デモクラシ 竹てっぽ ダボス

この三湖伝説は、実際に起きた自然災害との関わりが指摘されている。915年十和田湖にあった火山は2000年来最大とも言われる大噴火を起こす。この噴火によってもたらされた噴火降下物は各地で堆積し、自然のダムを造った。ダムは周囲を水浸しにしながらも最終的に決壊し、各地で大洪水を起こす。秋田県北秋田市の胡桃舘遺跡もこの時の洪水によって地下に埋まった遺跡である。そして、まさにこの被害を受けた地区に八郎太郎の伝説が残っているのである。

たとえば、南祖坊と八郎太郎の七日七晩の戦いは、稲妻を投げ合ったり、法力を駆使したりの壮絶なものであるとする表現があるが、これが十和田湖火山の噴火の様子を記述しているという人もいる。また、七座山の伝説に残っている「白鼠」は火山降下物が堆積し流れ下るシラス洪水なのではないかと指摘されている。

このことは、1966年に平山次郎,市川賢一によって「1000年前のシラス洪水」という論文で発表されている。(1966年4月号の地質ニュースに掲載されている。データはPDF化されて地質調査総合センターのサイトに現在置かれている)

915年のこの大噴火とそれに伴う大災害は中央の文書にははっきりと残っていない。扶桑略記に「7月5日の朝日が月のようだったので人々は不思議に思った。13日になって出羽の国から,灰が降って2寸積もった,桑の葉が各地で枯れとの報告があった」(暦はいずれもユリウス暦)という記録が残っているのみである。中央の権力が及ばない地区で起きたこの大事件を、民衆は物語として残していったとも考えられるのである。

また、八郎太郎が仲間に内緒で食べたとされるイワナであるが、これをヤマメとする話もある。ヤマメとすれば、馬淵川以北では元々ヤマメが生息しておらず、十和田湖噴火によって絶滅したとすれば辻褄が合う。

文化面を考えると、八郎太郎は色々な伝承があるが、いずれにせよ蝦夷系の仕事をする若者とされ、また辰子姫はアイヌ語語源の「タプコプ」(平野の中の小高い丘・たんこぶ山)が元になっているので、これもまた蝦夷系である。対する南祖坊は9世紀南の方からこの地区に来た、天台宗の坊主を象徴している。物語は恐ろしい自然災害を法力で鎮めてくれた南祖坊を描写しつつ、何やら八郎太郎に同情的でもある。